「かみさま」についてかんがえたらしいよ。
10月末にハロウィンを終えて、11月になると街は一気にクリスマス一色になった。
先日、大阪に飛び出してみたんだけど夜にはあちこちが電球で輝いていた。
綺麗だなぁって相変わらず口を半開きにしながら眺めてきた。
そもそもクリスマスって恋人がイチャイチャする日イエス・キリストのお誕生日です。
神様は、最も貧しい庶民へ最初に神様の誕生を教えたよっていうあのお話。
高校の時、クラスにカナダ人の留学生がやってきて彼女たちはそれはもうアドベントを楽しみにしていた。
でも、意外と日本人ってそういうのに疎くてとりあえずイベントを楽しめれば良いみたいな風潮があるような気がする。
クリスマスもするし初詣もするしお盆休みもある。
じゃあ、その意味を知っているのかというと以外と知らない人が多くて、カナダからやってきた彼女たちは大変驚いていた記憶がある。
「自分たちの文化、神様にこんなに関心がない人たちがいるなんて」
と。
私の家は結構特殊で
父方の祖父の実家は仏教曹洞宗のお寺で、おじいちゃんは元住職。
お寺のしきたりにうんざりして国語の先生になってしまった。
父方の祖母の実家は神社らしい。
よくわかんないけど、小学生の時に参列したひいおばあちゃんのお葬式が神道だった記憶がある。雅楽が頭から離れなくなった思い出。
そして私は小学生時代キリスト教(プロテスタント)の教会学校に通っていたことがある。
あ、大学1年の冬休みには神社で巫女さんもしたんだった。
お寺にも神社にも教会にも休みのたびに遊びに行っていた私は、
日本のイベントそれぞれをその宗教と共に過ごしたことがあるわけで。
日本は、どの神を信仰するのか自由って聞くけど
我が家はそれを象徴するかのように自由なんじゃないかしら。
そもそも、「神様はいるのか」。
先日、友人に聞かれたんだけど「いる」「いない」って判断していいものなのかよくわからない。
昔、母に言われたことがある。
「子どもは、宗教のある幼稚園に通わせたかった」
なぜなら、
「感謝する対象がわかるから」
だそうだ。
ご飯を食べる時。
本当は農家の人や調理をしてくれた人に感謝をするだろう。
でも、小さい私には目の前のご飯にたくさんの人が関わってくれているなんてわからない。
でも、「神様が与えてくれた」って言葉には
神様が与えてくれたたくさんの人たちや自然が含まれる。
何か悪いことをしそうになった時。
周りに先生やお母さんがいなかったら、ちょっと悪いことをしちゃいそうになる。
でも、「どんな時でも神様が見ているよ」って一言が自分にブレーキをかける。
何もかもうまくいかなくなってへこたれそうな時。
「神様はあなたのことを見捨てないよ」
そんな言葉が私を励ましてくれる。
そこでどんなかみさまを選ぼうとそれは自由だと思うんだそうだ。
確かに、私はこの「神様が」の一言に支えられて生きていたような気がする。
いろんなことを経験して、学んで、人と出会って、「神様が」になにが含まれているのかちょっとずつ発見しているようなそんな気がする。
実は、小学生の時にキリスト教の洗礼を受けようかと思ったことがある。
でも、あのとき思いとどまってよかったなって思っている。
だって私は知らない神様がまだまだたくさんいて
私が何を信じるかなんてそんな早く決められないもの。
優柔不断な私のことだから
きっとこの先もしばらく神様が「いる」のか「いない」のか断言できないだろうし
何を信じるのかなんて決められないんだろうけど
世界にはどんな神様がいて
それを信じている人たちがどんなことを考えていて
「神様が」になにが込められているのか
知っていけたらいいなぁ・・・と思うのです。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
こんな話、ちゃんと聞かれた時に答えられればいいんだろうけど
私の思考には結構時差があって「今更?」と言われてしまうことが多い。
ちょっと悔しい。
そんな時、考えをそっとのせられるぶろぐ、いいね。