地図は苦手だけど、路線図は好きらしいよ。

わたしの忘備録。備忘録。。。

2018年も終わっちゃうらしいよ。

あれよあれよという間にメリークリスマスが過ぎ去ってしまった。

今日は、なんと大晦日

冬休み前最後の授業で、

「年賀状にはどんな言葉を書きますか?」

と尋ねたら

「よいお年を!」

と元気よく答えてくれたクラスの子から届く年賀状が楽しみで仕方がない今日この頃。

 

2018年は、とにかく初めてがたくさんの文字通り目まぐるしい一年でした。

 

まずは、初めての海外までひとり旅。

 

sanmari-store.hatenadiary.jp

 

いやぁ、よくやった。

バイト代貯めて、未知の国パナマへ。

1人で旅したのは飛行機だけだったけど、大きな大きな挑戦でした。

海はしょっぱかったし

星空は綺麗だったし

サンコーチョは美味しかった。

でもきっと、最初で最後のパナマなんじゃないかと思う。

いやだって、普通に考えて

パナマってどこ?」

みたいな感覚でしょう。

大学院修了前の良いタイミングで、素敵な経験をさせてもらえて感謝感謝です。

 

そして、初めての一人暮らし。

ついに、キッチンもトイレもお風呂も自分の部屋にある一人暮らしを始めました。

(お風呂は狭くなったけど)

正直、想像以上に快適です。

なんせ、ソファとコタツがあるので。

引きこもりを極めようかと思っている。

でも、コタツで寝落ちはもうやめたい。

 

それから、初めてのお仕事。

働いてお金をもらえるってしあわせです。

なかなか毎日がドラマチックです。

「今日もいつも通りの平凡な一日でした」

なんて日はない。

もやもやしたり葛藤したりしながらも

今のクラスの子たちとの1年間があと3ヶ月ほどで終わってしまうと思うと、もっと毎日を大切に愛おしく思っていきたい。

まぁ、気持ちに余裕がなくなることは多いに予想されますが。

(教科書が、お、わ・ら・な・い!!)

 

グチグチ言いたいこともたくさんある一年だってけど

それを日記に書いて頭を整理するなり

お風呂に入って気分転換するなり

たくさん眠ってスッキリするなり

それなりに自分の中で昇華させようとして

「こんなこともあったなぁ」

って笑い話にできることが増えたそんな一年でした。

ひとつひとつ、ゆっくりしていて時間はかかるかもしれないけれど

大好きな人の前ではご機嫌な自分でいたいなぁと思いませんか。

わたしは、思います。

そんな一年。

 

来年もきっと、「なるようになる」くらいの気持ちで

焦らず「いまだ!」っていうタイミングを見つけたら

その感覚を信じてちょっと冒険できるような一年になりますように。

 

いろんな意味で、わたしにとっての区切りは3月になりそうだけれど。

んふふ。

楽しみだなぁ。

「言語は世界の限界である」らしいよ。

先週、我が家にこたつがやってきた。

学部生の頃からかれこれ6年近く欲しいと恋い焦がれていたこたつ。

ちゃんとソファに踏ん反り返って本を読みながらも入れるように脚が長いの。

もちろん短くすることもできるので

いつか畳のお部屋におこたを置きたいという願望も忘れておりません。

「家は自分だけの聖地」

なんて言うけれど、最近は聖地すぎて引きこもり願望が急上昇。

ちょっと困っているのは

こたつを導入してからというものの

目に見えて寝落ち率も急上昇していることでしょうか。

そんな11月中旬。

一気に寒くなってきましたね。

 

さてさて。

私には、枕元に置いているノートが二冊あります。

一冊は、日記。

もう一冊は、好きな本の好きな一節をただただ書き写しているノート。

どちらも小学生くらいから断続的に書いていて

最近は、継続しています。

(インテだったものの、わたしにも「日本語ができない」のレッテルがべったりと貼られた時代があったわけです。

毎日日記を書いては泣きながら直した日が・・・笑

もちろんそれだけではないけれども。)

 

かのアンネ・フランクも「アンネの日記」において

 

   だれもが毎晩眠りにつく前に

   その日1日の出来事を思いかえし

   何が良くて何が悪かったか

   きちんと反省してみるならば

   ひとはどれだけ崇高に

   りっぱに生きられることでしょう。

 

なんて仰っているわけだけれど

(まぁ、別に崇高でりっぱに生きたいなんて大それたことは思っていない)

1日の出来事をちょっと振り返ることで

ちょっとしたモヤモヤが晴れることが多いので

わたしは結構助かっています。

 

ウェトゲンシュタインの

「言語は世界の限界である」

っていう言葉の通り、言語化することで

自分の居場所が見えるような気がする。

仕事に対する愚痴であっても、書いて文字にしていく中で

自分に向いていること、向いていないこと

そんなものがふと俯瞰できるようになって落ち着く。

 

ここでいう「言語」は思考するツールという意味で使っているから

それが日本語である必要はもちろんなくて。

わたしは日本語の他に手話も使うけれど

手話で思考することも、(実は)あるらしい。

 

それは、院生時代のできごと。

あるゼミの中で、わたしは

大学時代に手話でインプットした知識を日本語でアウトプットできず

手は動くし頭の中でも言いたいことはまとまっているのにそれを表す日本語が見つからずに黙り込む

という事態に陥りまして。

ゼミの先生に

「ホントに手話で思考してきたんだね。。。」

と笑われ、ひたすら似ている日本語を探しては

指導教員が適切な日本語に置き換えてくれて説明をしたことがあったのです。

 

三島由紀夫は「文体は世界解釈の拠り所である」なんて言葉を残しましたが

思考ツールの言語もこの「文体」に含まれるのでしょうか。

 

ちょっと聴覚障害についてかじった人なら結構

「普通の学校で育って、第一言語は音声日本語」

っていう生育歴とわたしの聴力だけを見て

「日本語だけで思考をする人」

とわたしを位置付ける。

 

でも、そんな簡単な話ではなくて

「思考するツール」

はその時の環境によって随分と変わってくる。

 

そんなこんなで、日記で書記日本語で思考をしてスッキリできている最近のわたしの環境は

限りなく日本語なんだと思う。

 

でもそういうのって、思考している本人にしか分かり得ないことであって。

「〇〇だから××」

なんて先入観と自分の価値観に頼るのってこわいよなぁ。

「わたしだったらこうする」

じゃなくて

「あなただったらどうするか」

を考えるって、難しいけれど、大事なこと。

 

こんなことをうんうん考えながら書いて

ちょっとずつ世界を広げる

のが案外楽しい今日この頃です。

 

 

 

あ、そういえばね、先日インフルエンザの予防接種を受けまして。

あまりにも痛がっていたら、上司に

「注射で泣くオトナ、初めて見た」

と言われました。

あはは。

言われてから、泣いていることに気づいたよ。

とっても痛かったよ。。。

「今がちょうどその時」そんなタイミングがあるらしいよ。

健康診断で引っかかった。

実家の近所に住んでいるわたしのひいお婆ちゃんの親友みたいに

しっかりとそして優しくわたしの手を握った髪が真っ白の女医さんが

「間食を午前と午後に1回ずつ、それから夜ご飯のおかずを一品増やしなさい」

とちょっと強張った表情をしたわたしに語りかけた。

一生懸命食べているのになかなか体重が増えないことは、

高校生くらいからの悩みのタネになっています。

そんな11月。

 

中学生か高校生の頃

( どっちだか忘れたけど、とりあえず小倉に住んでいたはず )

当時話題だった村上春樹の「ノルウェイの森」を読もうとした。

でも、結局、読めなかった。

文章がどうもしっくり頭に入ってこなくて。

本を読むときにはだいたい頭の中で情景が映像化していくんだけれど、

この時の「ノルウェイの森」は活字のままわたしの頭の中で流れていった。

同じ経験を

中学生の時にマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」で経験したし

大学院生の時には森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」でも経験した。

きっと、村上春樹の本を開くことはこの先ないんだろうなぁと思っていた。

 

誰に勧められても

いくらメディアで話題に取り上げられても

それからの10年近く手に取ろうともしなかった。

 

M2の冬の暑い中で、久しぶりに村上春樹の本を眺めた。

彼は「おもしろいよ」と言ったけれど

わたしはどうしても信じられなかった。

活字しか出てこないイメージが先行して。

 

社会人になって久しぶりに読書をしたくなって、その時に勧められたのが

村上春樹森見登美彦

「あぁ、この人とは絶対にわかりあえない」

と思った。

通勤の電車ですることといえば読書だし

休日はソファに踏ん反り返って本を読むことが趣味だけれど

あの二人が書いたものだけは理解できないだろう、と思っていた。

 

でも、あまりにも暇で図書館で森見登美彦村上春樹を一冊ずつ借りた。

確か

森見登美彦の「有頂天家族」と村上春樹の「風の歌を聴け」。

買ったら絶対に後悔するだろう

( 読了する自信がなかった )

と思ってわざわざ図書館に出向いたのに

昔の感覚はどこに行ったのか、どちらもちゃんと映像が流れていった。

あの時の、ただ活字が黒い画面に白字で流れていくだけの感覚はどこにいったのだろうか

と不思議に思うほど、ちゃんと情景の映像が流れた。

 

くやしい。

また、勧めてきた彼はわたしの一歩先を歩いていた。

また、わたしは彼を追いかけている。

くやしすぎて、ちょぴっと、泣いた。

 

あれから何ヶ月かが過ぎて

村上春樹が訳したカポーティの「ティファニーで朝食を」と

長編で有名な「1Q84」を読了したわけだけれども

ちゃんと情景の映像が流れている。

 

森見登美彦は読み終わった後に爽快感を

村上春樹は靄を残していく。

わたしは、両者ともちゃんと読めている。

なんでだろう。

なにが変わったんだろう。

 

1Q84」の青豆と天吾の会話じゃないけれども

もっと早く読めるようになればよかったのか

というとそういうわけでもなく

きっと、今がちょうどその時期だった

んだと思う。

 

きっとこれからも

今がちょうどその時期

はたくさん出てくると思う。

わたしはたまに、特に自分に余裕がない時に焦ってタイミングを急かそうとするけれど

今がちょうどその時期

をちゃんと上手に待てるようになりたい。

そんなことをしみじみと思ったのでした。

 

さて、次はなにを読もうかな。

(ちなみに、「風と共に去りぬ」も「ノルウェイの森」も「夜は短し歩けよ乙女」もまだ開く勇気はない。)

エネルギー不足、らしいよ。

昨日、お花屋さんの前を通ったら

とっても可愛いフラワーアレンジメントが店先に並んでいた。

すぐに2人の顔が思い浮かんで「プレゼントしよう。」って思ったんだけど

そういえば2人にはもう会えないんだった。

お盆にお墓参りに行ったじゃない。

我に返って、ちょっと悲しくなった。

そんな9月。

 

仕事を始めてから

なんだかわたしがわたしじゃないみたい。

でも、なんでだろう。

それが分からずに悶々としていたら

半年も「書くこと」から遠ざかっていたみたい。

 

その原因は【エネルギー不足】らしい。

(院生時代のゼミの先生に指摘されたんだけど、今のところ一番しっくりくる)

 

好きなことは食べることとおしゃべりをすることと考えること。

あと、本を読むことも大好き。

多分、半年くらい前までのわたしはこんな感じ。

 

だけど今のわたしは

自分1人のためにランチに行こうとか思わなくなっちゃってたし

しゃべってはいるんだけどしゃべりながら思考することがなくなってた。ような気がする。

 

夏休み、久しぶりに院生時代のゼミの先生とカフェに行ったんだけど

1時間半の間ものすごく楽しくって。

何が楽しいのかって、しゃべりながらいろんなことが頭の中に浮かんでくること。

1話したら3ぐらい考えたいことが出てきて

ひたすら議論するんだけどね。

「こう思うんだけど、どう思う?」

ってしてる時間がとても好きなんだって思い出した。

仕事をしていると、「報告」はあっても「議論」はなくて。

「しょうがない」で片付けられちゃったり「愚痴」で止まっちゃったりすることが多すぎる。

「行動とその結果」じゃなくて「この時こう思ってた」をポンポンって語り合いたい。

 

あと、その時の表情も見たい。

仕事をしていると、なんだかみんな無表情だし。

ちょっと、さびしい。

テレビ電話で解決するのかといえば、なんだか足りない!なんてわがまま。

ちょっとした表情や息づかいも大事なんだなって。

やっぱり、同じ空気を共有するの、大事。

いや、テレビ電話だって楽しいんだけど。

非現実と現実が入り混じっている感覚が。

 

6年間の学部・院生活で、感じていた感覚はそう間違っていなくて

実際に自分が現場に立ってみて日々裏付けされていくことがたくさんある。

あの時2年間立ち止まったこと(立ち止まっていたという表現があっているのかはわからないけど、世間一般的に見たら立ち止まっているように見える、んだと思う。)にはちゃんと意味があった。

まぁ、そのおかげで悶々とすることも増えたけど。

 

とにかく周りから「思考を取り戻して!」と言われ続けた夏休み。

後半から久しぶりに読書にはまってます。

沢木耕太郎カポーティ遠藤周作谷川俊太郎・・・。

なかなかいい感じ。

誰かさんとの会話を思い出したりしながら

点と点が繋がって

悔しくなったりするぐらいの思考は戻りつつあります。

 

夏休み明けの目標は、自分を見失わないこと。

簡単なように見えて、意外と難しかったから。